グレゴリー・ケリー(Gregory Eric "Greg" Kelley、1944年5月19日 - 1961年2月15日)は、アメリカ合衆国出身の男性フィギュアスケート選手である。1961年の全米フィギュアスケート選手権(男子シングル)で2位となって、同年の世界フィギュアスケート選手権代表に選出された。しかし、開催地のプラハに向かう途上、搭乗していた航空機が事故(サベナ航空548便墜落事故)に遭って死亡した。
経歴
マサチューセッツ州の出身。父は医師で、6人兄弟姉妹の一番下の子であった。ニュートン市で育ち、カトリック系の学校に入学した。ケリーは、将来は父のような医師になることを目指していた。
フィギュアスケートを始めたのは、8歳のときであった。ボストンにあるスケートクラブで、モントゴメリー・ウィルソンの指導を受けた。ケリーの家族は、彼がフィギュアスケートを続けるために多大な援助を与えた。長姉のナタリーはボストンで科学の教師を務めていたが、弟の個人教師となってトレーニングや遠征等で移動する際も一緒に付き添っていた。
1957年、全米フィギュアスケート選手権(男子シングル)のノービスクラスで優勝し、1958年はジュニアクラスで2位、1959年はジュニアクラスで優勝した。1960年は、全米フィギュアスケート選手権で5位となり、同年の世界フィギュアスケート選手権に初出場して9位の成績を残した。
1961年、全米フィギュアスケート選手権で2位、北米フィギュアスケート選手権で3位となって同年、チェコスロバキア(当時、現チェコ)のプラハで開催予定だった世界フィギュアスケート選手権代表に選出された。同年2月15日、ケリーを含む世界フィギュアスケート選手権アメリカ合衆国代表チーム(選手18名、コーチ6名、マネージャー1名、競技委員と審判員3名、選手・コーチ等の家族6名)は、ニューヨークのアイドルワイルド空港(現在のジョン・F・ケネディ国際空港)からサベナ航空548便ボーイング707-329(機体記号OO-SJB、1959年製造)に搭乗してベルギー・ブリュッセル国際空港に向かっていた。しかし、着陸直前に機体が制御を失って上昇と横傾斜を始め、そのまま空港近くの村落に墜落した。
事故機の機体は炎上し、世界フィギュアスケート選手権アメリカ合衆国代表チームを含む乗客乗員72名全員と地上に居合わせて事故に巻き込まれた住民1名が死亡し、住民1名が重傷を負った。なお、この事故でケリーの姉ナタリーも死亡している。
ケリーはマサチューセッツ州サフォーク郡ウエストロクスベリーにあるセント・ジョゼフ墓地に埋葬された。2011年、1961年世界フィギュアスケート選手権アメリカ合衆国代表チーム(34名)は全米フィギュアスケート協会殿堂入りを果たしている。
主な戦績
- N = ノービスクラス; J = ジュニアクラス
脚注
注釈
出典
外部リンク
- “Accident description at the Aviation Safety Network”. Flight Safety Foundation. 2014年11月11日閲覧。 (英語)
- “The plane crash that killed the 1961 U.S. world championship figure skating team decimated families and the sport, but alongside grief came renewal.”. ESPN. 2014年11月11日閲覧。 (英語)




