海馬島(かいばとう、とどじま)は、宗谷海峡に存在する島。樺太島(サハリン島)の南西に位置し、晴れた日には宗谷岬を含む稚内市内や利尻島・礼文島からも見ることができる。現在は無人島となっているが、日本領時代には集落が存在した。別称として探検家ラ・ペルーズの命名によるモネロンMoneron)島があり、ロシア語による名称(Остров Монерон)の由来となっている。現在はサハリン州の一部としてロシアが統治している。

概要

古くは正保日本図において「いしよこたん」として描かれており、元禄13年(1700年)の『松前島郷帳』では西蝦夷地の離島として「いしよこたん」が記されている。寛政2年(1790年)の最上徳内『蝦夷国風俗人情之沙汰』では、「トヾシマ」についてナヨシから南に6里ないしは7里離れた海上にある島としている。

文化7年 (1810年)の『黒竜江中州并天度』では「モシロヽ」として記されている。文化13年(1816年)の『松前蝦夷地島図』には「トヽモシリ」として記されており、別名として「イシヨコタン」をあげる。嘉永7年(1854年)刊行の『蝦夷闔境輿地全図』においても「トヽモシリ」として見える。1909年発行の『東亜輿地図』では「トドモシリ島」として記載されている。

1855年の下田条約(日露和親条約)から1875年のサンクトペテルブルク条約(樺太・千島交換条約)までは日露共同支配の下に置かれた。1875年以降はロシア領となったが、1905年(明治38年)、日露戦争ののち日本とロシア帝国との間では講和条約(ポーツマス条約)が結ばれ、北緯50度より南の樺太は日本に割譲され、海馬島も日本領となった。日本統治時代は、本斗郡に属し、樺太庁真岡支庁の管轄下に置かれた。

海馬島には、島内でのみ確認される種を含む380種類の植物が自生しており、「海馬島特殊植物群落地帯」として樺太庁の天然記念物に指定されていた。礼文島とは海底山脈によってつながっている。

1941年(昭和16年)には樺太町村制がしかれて海馬村が成立し、当時、751人の居住者がいた。1945年8月にソ連軍によって占領されたが、島民は略奪や暴行を恐れ、すでに島を脱出していた。

脚注

参考文献

  • 天野尚樹 著「序章 樺太の地理と人びと」、原暉之・天野尚樹 編『樺太四〇年の歴史―四〇万人の故郷』一般社団法人 全国樺太連盟、2017年3月。ISBN 978-4-9909527-0-9。 
  • 永井豪『海馬島脱出―子どもたちの敗戦記』まつお出版、2016年10月。ISBN 978-4944168453。 

関連項目

  • 大韓航空機撃墜事件 - 海馬島の沖に大韓航空の旅客機が墜落した1983年の事件。


簡単に分かる「サハリン」と「樺太」の違い!実は同じ場所?ロシアに暮らす院卒日本語教師が分かりやすく解説 ページ 3 StudyZ

海馬島

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