米内内閣(よないないかく)は、軍事参議官・予備役海軍大将の米内光政が第37代内閣総理大臣に任命され、1940年(昭和15年)1月16日から1940年(昭和15年)7月22日まで続いた日本の内閣。
閣僚の顔ぶれ・人事
国務大臣
1940年(昭和15年)1月16日任命。在職日数189日。
内閣書記官長・法制局長官
1940年(昭和15年)1月16日任命。
政務次官
1940年(昭和15年)1月24日任命。
参与官
1940年(昭和15年)1月24日任命。
勢力早見表
※ 内閣発足当初(前内閣の事務引継は除く)。
内閣の動き
1940年当時、世界情勢は自由主義を執る英米、ファシズム(一国一党制、国家社会主義)をとる独伊、共産主義を執るソ連の三大勢力に分かれており、日本政界は、社会革新によるファシズムへの政体意向を企図する革新派(陸軍および革新官僚)と、これに反対する自由主義派に分かれて対立していた。首相の座は、革新派について統制法案を成立させた近衛文麿のあとは、観念右翼の平沼騏一郎、陸軍穏健派の阿部信行と、ファシズムと距離をとる政権に引き継がれ、革新派と対立していた。1939年9月に開戦した第二次世界大戦の緒戦ではナチス・ドイツがポーランドを席巻したことから、親独派の勢いはますます高まった。
阿部内閣は、日中戦争に集中すべく欧州情勢への不介入を表明するも、元来政治基盤が弱かったため自身の出自である陸軍中枢と対立し、短期政権に終わる。次期首相選定で、昭和天皇は海軍穏健派の米内光政海軍大将を希望。湯浅倉平内大臣の主導により、西園寺公望元老ら重臣への意見聴取の上で、1月16日に米内内閣が成立する。しかし陸軍は、天皇の信任の厚い畑俊六陸相の昇格を期待していたことから米内には不満で、これに非協力的な態度で臨むという不安定な政権になる。
政党の側も、ドイツに倣ってファシズムを目指す動きが起こる。2月3日、斎藤隆夫衆議院議員(立憲民政党)の反軍演説が除名騒動に発展する中、社会大衆党ら革新政党が中心となり、陸軍革新派と連携。やがて、近衛元首相を党首に担ぐ「近衛新党」による一国一党制への大きなうねりが起こり、主要政党の分裂や解党の動きが相次ぐ(新体制運動)。5月にはドイツがフランスに電撃侵攻。6月にはフランス全土を抑えると、時局に便乗して親独派の動きはますます強まり、近衛元首相も政権復帰の意思を表明する。近衛と結びついた陸軍は7月4日、「陸軍の総意」(陸軍三長官合意)として畑陸相を辞職させる。後継を得られなかったことにより米内内閣は総辞職に至る。
7月16日、第2次近衛内閣が成立。同内閣の下で日独伊三国同盟が締結され、日本はファシズム(大政翼賛運動)への道を選択する。
脚注
注釈
出典
参考文献
- 秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年
- 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年
- 升味準之輔『新装版 日本政党史論 第7巻 近衛新体制』東京大学出版会、東京都文京区、2011年12月15日。ISBN 978-4-13-034277-3。
関連項目
- 1940年の政治
外部リンク
- 首相官邸 - 米内内閣




